「ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。〔…〕死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。」
「いわば一個の符号にすぎない一人の名前が、一人の人間にとってそれほど決定的な意味を持つのはなぜか。それは、まさしくそれが、一個のまぎれがたい符号だからであり、それが単なる番号におけるような連続性を、はっきりと拒んでいるからにほかならない。ここでは、疎外ということはむしろ救いであり、峻別されることは祝福である。」
「一人の日本人と一人のルーマニア人、この二つの死体の記憶をもって、私は、入ソ後の最悪の一年を生きのびた。私が生きのびたのは、おそらく偶然によってであったろう。生きるべくして生きのびたと、私は思わない。だが、偶然であればこそ、一個の死体が確認されなければならず、一人の死者の名前が記憶されなければならないのである。」
(石原吉郎 1997(初出:1969)「確認されない死のなかで−−強制収容所における一人の死」『望郷と海』ちくま学芸文庫)
ひとつのことば 非戦のために